20stories

Vol.02

幼心に刻み込んだ、人生における決意。

Vol.02

幼心に刻み込んだ、人生における決意。

2022年である現在から遡ること64年。1958年6月9日、東京の神田に今も残る浜田病院にて、父・名児耶清と母・名児耶清子の次男として、私はこの世に生を受けた。長男である兄が1人と姉が3人いて、さらに後になって弟となる三男が産まれたが、悲しいことに生を受けてすぐに命を落としている。

私の実家は約150年続くブラシやハケのメーカーである。曽祖父に当たる名児耶寅松が、新潟県の長岡市で創業したのが明治5年のこと。彼はリヤカーをひいて製品を東京まで売りに来ていたと聞いた。2代目となる私の祖父、名児耶清松が代表を務めている時に『名児耶刷毛製作所』として東京の浅草に進出。その後、社名が『日本輸出ブラシ工業株式会社』に変更され、父・清が代表に就任した後、さらに『株式会社マーナ』と改名し現在に至っている。

読者の中にはご存じの方もいるかもしれない。マーナはトイレブラシやボディブラシなどはもちろん、『ヤモリフック』や『ブタの落としぶた』、『おさかなスポンジ』、『立つしゃもじ』といった数々の大ヒット生活雑貨をうみ出したあのマーナであり、現在は私の兄が4代目の代表を務めている。私自身は長い間、家業であるマーナとは別の人生を歩むこととなるのだが、ひょんなことから合流し、またあることをきっかけに卒業して、アッシュコンセプトの起業に至っているが、それはまだまだ先の話である。

そんな環境で生まれ育ったこともあり、幼い頃から私の周りには当たり前のようにたくさんの職人たちがいた。当時、ハケをつくるために使用していたのは、例えば馬の毛である。天然の毛は、当然ながら太さがすべて違うので、一定の長さに切った毛を作業場に撒き散らし、それをかき混ぜ、太さが均一になるように、一つひとつ手作業で束にしていく。また製材所では、大きな1本の丸太を切ることで、持ち手の部分をつくり出す。職人たちによってどんどんと進められる手仕事を、工場に遊びに行ってはずっと見ていた。その光景こそが、今も同じモノづくりの仕事に従事する私の原風景となっている。

父、清と。名児耶秀美、5歳。葉山の海が見える岩場にて。

父である清は慶應義塾大学の経済学部を出た生粋の経営者タイプだ。職人ではないので、先に書いたような手仕事はいっさいしない。そんな父と私は、正直あまりそりが合わず、今思い返しても父から学んだことはあまりないように思う。社長でありながら『全日本ブラシ工業協同組合』という組織の会長職にも就いていた彼は、自分の会社の実業よりも組合の運営に時間を割き、力を注いでばかり。そのことを発端にして、よく母と意見をぶつけ合わせており、幼い自分には母はとても苦労しているように見えた。

一方の母、清子は、前述の通り弟がいたものの、実質末っ子として育てられた私をとても可愛がってくれた。とにかく曲がったことが大嫌い。そんな彼女の生き方は、今の私にもしっかりと息づいている。大人になり、会社を経営していく中で、父に関しては上に書いたような理由で反面教師にしている部分が多く、むしろ母から教わった姿勢を貫いているのかもしれない。

名児耶秀美 アッシュコンセプト

母、清子と。名児耶秀美、生後6ヶ月。自宅の居間にて。

こういった環境で育った私が、父から言われ続けたことがある。それは「お前は次男だから、好きなように生きろ」という言葉だ。自分の道は、自分で切り拓くしかない。そんな決意を幼心に刻み込んだ私は、家業の影響もあったのか、何かに導かれるように美術の世界へと進んでいくのだが、それは小学校〜中学校にかけていろいろな回り道をした後の話である。

Vol.03に続く

Back to top