私の入社後、マーナは着実に業績を伸ばし、組織の規模を拡大させながら、いくつものヒット商品をうみ出していった。それらの海外展開の強化に向けて、またよりよい生産工場を求め、さらに展示会への出展や視察などを目的に、ヨーロッパやアメリカ、中国、その他の国々を含め、この頃の私は何度も海を渡っている。
その中で改めて痛感したこと。それは“日本のデザインの素晴らしさ”である。使う人への配慮と、自分の表現との調和からうみ出される日本のモノづくりは、もはや世界トップレベルにあることは間違いなかった。しかし疑問が残る。ではなぜ日本人のデザイナーの名前が世の中に出てこないのか。優れた商品を見た時、ほとんどの場合、それをつくって世に送り出したメーカー名は分かったとしても、誰がデザインしたのかは分からない。
そこにはいくつかの理由があった。そのひとつに、デザインは商品がヒットする大きな要因となるので、企業の中でトップシークレットとなる場合が多いことが挙げられる。しかしそれでは心血を注いで優れた作品をつくり出しているデザイナーたちが報われないのではないか。そういった思いが、私の中で日に日に大きくなっていった。
そんなタイミングで、とある取材の依頼が舞い込んだ。媒体は『日経デザイン』。「気になる商品が、ほとんどマーナだったから」と、後に同誌の編集長を務めることとなる下川一哉氏(現:株式会社 意と匠研究所代表)から声をかけていただいた。その取材の中で私は上にも書いた思いを伝え、これからの展望として「デザイナーにフォーカスを当てたブランドをつくっていきたい」と語る。すると下川氏もそれに強く共感してくださり、予定のページ数を超えて、特集を組んでもらった。そして図らずもその記事が、私の人生をまた大きく動かすことになる。
下川氏は2017年より開催している「h concept DESIGN COMPETITION 」の審査会進行役を初年度より務めている。
下川氏による取材記事が日経デザインに掲載された数日後、当時すでに社長職に就いていた兄が、特集ページを開きながら強い口調で言ってきた。
「ここに書いてあるようなことを、うちでやるつもりはないぞ」
私は唖然とした。『デザイナーにフィーチャーしたブランド展開』は、企画書として提出し、役員会でも通ったはずだが、一転して却下を突きつけられたのである。そこから議論を重ねたが、2人の意見は食い違い、平行線をたどるばかり。しかし私は自分の構想を譲れなかった。それを実現することで、会社を、そして私自身をずっと助けてくれたデザイナーたちに、人生をかけた恩返しをしたい。決心は固かった。
ここでそれがやれないのであれば、自分でやるしかない。それに長きにわたって兄と二人三脚で会社を牽引してきたが、やはり船頭が多いと船はまっすぐ前には動かないとわかった。次のステップへと進むなら今。そう心は決まった。
入社当時の社屋で。自身で倉庫を改装し、そこに『企画室』を立ち上げた。
2002年の年明け。父から嘆願されて入社し、そこから18年にわたって精力を注いできたマーナを私は退職する。そして眠れないまでの不安を抱えながら、次へとつながる新しいドアに手をかけようとしていた。