アッシュコンセプト創立20周年記念 特別連載
アッシュコンセプト代表取締役・デザインプロデューサー
名児耶秀美が綴る、20年間の挑戦と歩み。
名児耶 秀美 なごや ひでよし
アッシュコンセプト 代表取締役 / デザインプロデューサー
Profile
武蔵野美術大学造形学部卒業、ペア・シュメルシュア(デザイナー)のもとでアシスタントを経て、㈱髙島屋宣伝部、㈱マーナ専務取締役企画室長として、経営・商品開発・プロデュース・マーケティング・デザイン戦略に携わる。2002年 アッシュコンセプトを設立。生活者とデザイナーが楽しめるモノづくりをめざし、デザイナーとのコラボレートブランド「+d (プラスディー)」をはじめ、様々な製品を発信。ジャパンブランド・地場産業振興コンサルティング等も手掛ける。2012年には直営のデザインプロダクトショップ「KONCENT」をオープンし、現在国内外に店舗を展開している。
アッシュコンセプト
創立20周年記念 特別連載
アッシュコンセプト代表取締役・
デザインプロデューサー 名児耶秀美が綴る、
20年間の挑戦と歩み。
名児耶 秀美
なごや ひでよし
アッシュコンセプト代表取締役 /
デザインプロデューサー
Profile
武蔵野美術大学造形学部卒業、ペア・シュメルシュア(デザイナー)のもとでアシスタントを経て、㈱髙島屋宣伝部、㈱マーナ専務取締役企画室長として、経営・商品開発・プロデュース・マーケティング・デザイン戦略に携わる。2002年 アッシュコンセプトを設立。生活者とデザイナーが楽しめるモノづくりをめざし、デザイナーとのコラボレートブランド「+d (プラスディー)」をはじめ、様々な製品を発信。ジャパンブランド・地場産業振興コンサルティング等も手掛ける。2012年には直営のデザインプロダクトショップ「KONCENT」をオープンし、現在国内外に店舗を展開している。
思考よりも行動。その積み重ねでたどり着いた“今”。
たまに妻と一緒に趣味のゴルフをやる。その中で感じたことがあった。それは『ブラインド』と呼ばれる、グリーンやカップが見えないコースでドライバーを打つ時のこと。人によっては、キャディさんに「どこに打てばいいの?」などと尋ねる方もいるだろう。しかし答えはひとつ。(続きを読む)
幼心に刻み込んだ、人生における決意。
2022年である現在から遡ること64年。1958年6月9日、東京の神田に今も残る浜田病院にて、父・名児耶清と母・名児耶清子の次男として、私はこの世に生を受けた。長男である兄が1人と姉が3人いて、さらに後になって弟となる三男が産まれたが、悲しいことに生を受けてすぐに命を落としている。(続きを読む)
叱られ、何度も読まされた“人生のバイブル”。
1965年の春に地元の『浅草寺幼稚園』を卒園し、小学校へと進んだ。通っていたのは九段下駅の近くにある私立『暁星学園』。キリスト教を教育理念に持つその学校には、東京にある中小企業の経営者の息子たちが数多く通っていた。小・中・高の一貫教育であり、私も高校までをそこで過ごすこととなる。(続きを読む)
中ランとボンタンの美大志望生、誕生。
前回お伝えした通り、「ケンカはしない不良」とでも呼べるような荒れた中学校生活を送った後、1974年に暁星学園高等部へと進学。仲間たちとの悪さにも飽きてしまったその頃の私は、人生で進むべき道を模索すべく「自分は何が好きなのか」をじっくりと考え始めていた。(続きを読む)
授業の中で感じた、拭いきれない違和感。
1977年の春、私は武蔵野美術大学造形学科の『芸能デザイン学科』に入学した。晴れて念願だった美大生となったわけである。主に学んでいたのは、舞台やディスプレイといった商業ベースの空間演出に関わるデザイン。ちなみにアッシュコンセプトの直営店である『KONCENT』の各店舗で、商品を置くために(続きを読む)
知識や働き方、考え方。すべてを教わった人生の師との出会い。
先述の通り、人一倍不真面目な美大生だった私に、“人生の師”と呼べるまでに大きな影響を与える人との出会いが訪れた。その人は、デンマークから日本へと来ていたデザイナー、ペア・シュメルシュア氏(以下:ペアさん)。私は「デザインとはなんたるか」のすべてを、大学の教室ではなく、アルバイト先だった(続きを読む)
安売りはしない。若手の生意気な発言は、今も変わらぬ商売の基本。
決して褒められるような大学生活は送っていなかったが、1981年の3月、私は無事に武蔵野美術大学を卒業することとなる。就職活動を行う中で、OA機器などを扱う大手メーカーから内定をいただき、そこに就職するつもりだった。しかし卒業を間近に控えたタイミングで、ペアさんから思わぬ声がかけられる。(続きを読む)
クライアントは実家。デザインとユーザー目線で急成長を。
高島屋に入社してから3年。忙しくも充実した社会人生活を送る中で「父が倒れた」と家族から連絡を受け、私は病院へと見舞いに行った。そこで父から意外な申し出を受ける。「家業であるマーナを手伝ってくれ」本当に驚いた。この連載の中でもお伝えしてきた通り、小さな頃からずっと「お前は次男坊だから、(続きを読む)
譲れない思い。人生をかけた恩返しを、デザイナーに。
私の入社後、マーナは着実に業績を伸ばし、組織の規模を拡大させながら、いくつものヒット商品をうみ出していった。それらの海外展開の強化に向けて、またよりよい生産工場を求め、さらに展示会への出展や視察などを目的に、ヨーロッパやアメリカ、中国、その他の国々を含め、この頃の私は何度も海を渡って(続きを読む)
「デザイン」ひとつを手に、商品がないままの出港。
18年間にわたって勤めてきたマーナを退職した私は、少しの間も空けずに新しい会社を設立することにした。そうなると当然、社名を考えなければならない。これまで公に語ったことはあまりないが、はじめは名前をそのまま使って『ヒデヨシ商店』という案もあった。しかしそれではさすがに少し不恰好である。(続きを読む)
ひとりきりでの再スタート。人に恵まれ、すぐに増えた仲間たち。
前回お伝えした通り、2002年2月に登記を済ませ、同年4月よりアッシュコンセプト株式会社は事業をスタートさせた。しかしこれも繰り返しになるが、メーカーであるにも関わらず、売る商品を何ひとつ持たない状態。1年ほどは自分の報酬はとらず、貯金を食いつぶすしかないと覚悟を決めていた。(続きを読む)
記念すべき第一作が、『+d』の象徴となるアイテムに。
2002年、アッシュコンセプトを創業してすぐに、“マスターピース”と呼べる商品が、オリジナルブランド『+d(プラスディー)』のファーストプロダクトとしてリリースされた。名前は『アニマルラバーバンド』。デザインユニット、パスキーデザイン(大橋由三子氏、羽根田正憲氏)による傑作中の傑作で(続きを読む)
今も変わらないブランドの根幹。大切なのは、信頼関係と絆。
2000年代前半に国内のデザインシーンを席巻した『POLY-SITE(=ポリサイト)』というチームがいたことをご存知だろうか。おおよそ商品として世の中に出ることのないであろう、自由かつ奇抜な作風で、コアな層を中心に高い評価を得ており、私も大ファンだった。(続きを読む)
揺るぐことのない信念。それが“ユーザー視点のデザイン”。
現在アッシュコンセプトは、大きく4つの事業を展開している。ひとつ目は自社ブランドである『+d(プラスディー)』をはじめとしたオリジナル商品を開発するメーカーとしての機能。次に国内外で約10店舗を展開する『KONCENT(コンセント)』とオンラインを含めた小売。さらに(続きを読む)
数え切れない引っ越しと、数え切れない感謝の念。
下町生まれの、下町育ち。自分を紹介する時に、よくそんな言い回しを使っている。人が温かく、街のいたるところに情緒や風情を感じさせてくれる下町の雰囲気が大好きだ。そしてそれは生活に限った話ではない。2002年にアッシュコンセプトを創業してから“イースト・トーキョー・エリア”と(続きを読む)
“黒船作戦”で、海外へと出展。今は“規模”より“価値”を追い求めて。
この連載の何回か前にお伝えしたとおり、オリジナルブランド『+d(プラスディー)』は、ニューヨークの『MoMAデザインストア』から販売をスタートさせた。その結果「海外で売れている」という事実が、国内の販売戦略にも良い影響を与えることを再認識する。(続きを読む)
売り方までをデザインするための挑戦、『KONCENT』。
2012年4月。本社を蔵前駅前のビルに移転したタイミングで、直営店『KONCENT(コンセント)』の1号店をつくった。きっかけは前述の通り、現在は役員を務める中森大貴から「小売店を持ちたい」という声が上がってきたから。しかし正直に告白すると、私は少し抵抗があった。(続きを読む)
会社の歴史。それは人との出会い、そして育まれた絆の歴史である。
幼少期から学生時代、そして高島屋、マーナと社会人経験を積む中で、とにかく人に恵まれ、人に支えられてここまでやってきたと思っている。「デザインはチームプレー」。スタッフたちにもずっと伝え続けている大切な考え方だ。多くの人たちとの出会いがなければ、今の私はなく、(続きを読む)
上下関係はなし。妻と息子は仕事とプライベートの両方で関わる仲間。
前回の終わりに書いた通り、ここで自分の家族に触れた上で、フィナーレへと向かいたい。妻の久美子とは武蔵野美術大学のスキー部で出会った。学生の時に交際をスタート、高島屋在籍時に結婚をして、約40年が経ち、現在に至っている。「大好きな人ができたら、青い便箋と封筒で手紙を書く」と(続きを読む)
迷いの中で、これからも「Let’s act」。感謝の歴史は続いていく……
さぁ、ついに最終回までやって来た。フィナーレはもうすぐ。締めくくりの話を進めていこう。今回、この連載プロジェクトを通して、改めて自分の人生を振り返ってみた。その中で感じたのは、連載の最初にも書いたが、自分の歴史、そして会社の歴史は、“人への感謝の歴史”に他ならないということに尽きる。(続きを読む)
思考よりも行動。
その積み重ねでたどり着いた“今”。
たまに妻と一緒に趣味のゴルフをやる。その中で感じたことがあった。それは『ブラインド』と呼ばれる、グリーンやカップが見えないコースでドライバーを打つ時のこと。人によっては、キャディさんに「どこに打てばいいの?」などと尋ねる方もいるだろう。しかし答えはひとつ。(続きを読む)
幼心に刻み込んだ、
人生における決意。
2022年である現在から遡ること64年。1958年6月9日、東京の神田に今も残る浜田病院にて、父・名児耶清と母・名児耶清子の次男として、私はこの世に生を受けた。長男である兄が1人と姉が3人いて、さらに後になって弟となる三男が産まれたが、悲しいことに生を受けてすぐに(続きを読む)
叱られ、何度も読まされた
“人生のバイブル”。
1965年の春に地元の『浅草寺幼稚園』を卒園し、小学校へと進んだ。通っていたのは九段下駅の近くにある私立『暁星学園』。キリスト教を教育理念に持つその学校には、東京にある中小企業の経営者の息子たちが数多く通っていた。小・中・高の一貫教育であり、私も高校までをそこで(続きを読む)
中ランとボンタンの
美大志望生、誕生。
前回お伝えした通り、「ケンカはしない不良」とでも呼べるような荒れた中学校生活を送った後、1974年に暁星学園高等部へと進学。仲間たちとの悪さにも飽きてしまったその頃の私は、人生で進むべき道を模索すべく「自分は何が好きなのか」をじっくりと考え始めていた。(続きを読む)
授業の中で感じた、
拭いきれない違和感。
1977年の春、私は武蔵野美術大学造形学科の『芸能デザイン学科』に入学した。晴れて念願だった美大生となったわけである。主に学んでいたのは、舞台やディスプレイといった商業ベースの空間演出に関わるデザイン。ちなみにアッシュコンセプトの直営店である『KONCENT』の各店舗で(続きを読む)
知識や働き方、考え方。すべてを
教わった人生の師との出会い。
先述の通り、人一倍不真面目な美大生だった私に、“人生の師”と呼べるまでに大きな影響を与える人との出会いが訪れた。その人は、デンマークから日本へと来ていたデザイナー、ペア・シュメルシュア氏(以下:ペアさん)。私は「デザインとはなんたるか」のすべてを、大学の教室で(続きを読む)
安売りはしない。若手の生意気な
発言は、今も変わらぬ商売の基本。
決して褒められるような大学生活は送っていなかったが、1981年の3月、私は無事に武蔵野美術大学を卒業することとなる。就職活動を行う中で、OA機器などを扱う大手メーカーから内定をいただき、そこに就職するつもりだった。しかし卒業を間近に控えたタイミングで、ペアさんから(続きを読む)
クライアントは実家。デザインと
ユーザー目線で急成長を。
高島屋に入社してから3年。忙しくも充実した社会人生活を送る中で「父が倒れた」と家族から連絡を受け、私は病院へと見舞いに行った。そこで父から意外な申し出を受ける。「家業であるマーナを手伝ってくれ」本当に驚いた。この連載の中でもお伝えしてきた通り、小さな頃からずっと(続きを読む)
譲れない思い。人生をかけた
恩返しを、デザイナーに。
私の入社後、マーナは着実に業績を伸ばし、組織の規模を拡大させながら、いくつものヒット商品をうみ出していった。それらの海外展開の強化に向けて、またよりよい生産工場を求め、さらに展示会への出展や視察などを目的に、ヨーロッパやアメリカ、中国、その他の国々を含め、(続きを読む)
「デザイン」ひとつを手に、
商品がないままの出港。
18年間にわたって勤めてきたマーナを退職した私は、少しの間も空けずに新しい会社を設立することにした。そうなると当然、社名を考えなければならない。これまで公に語ったことはあまりないが、はじめは名前をそのまま使って『ヒデヨシ商店』という案もあった。しかしそれでは(続きを読む)
ひとりきりでの再スタート。人に
恵まれ、すぐに増えた仲間たち。
前回お伝えした通り、2002年2月に登記を済ませ、同年4月よりアッシュコンセプト株式会社は事業をスタートさせた。しかしこれも繰り返しになるが、メーカーであるにも関わらず、売る商品を何ひとつ持たない状態。1年ほどは自分の報酬はとらず、貯金を食いつぶすしかないと(続きを読む)
記念すべき第一作が、
『+d』の象徴となるアイテムに。
2002年、アッシュコンセプトを創業してすぐに、“マスターピース”と呼べる商品が、オリジナルブランド『+d(プラスディー)』のファーストプロダクトとしてリリースされた。名前は『アニマルラバーバンド』。デザインユニット、パスキーデザイン(大橋由三子氏、羽根田正憲氏)(続きを読む)
今も変わらないブランドの根幹。
大切なのは、信頼関係と絆。
2000年代前半に国内のデザインシーンを席巻した『POLY-SITE(=ポリサイト)』というチームがいたことをご存知だろうか。おおよそ商品として世の中に出ることのないであろう、自由かつ奇抜な作風で、コアな層を中心に高い評価を得ており、私も大ファンだった。(続きを読む)
揺るぐことのない信念。
それが“ユーザー視点のデザイン”。
現在アッシュコンセプトは、大きく4つの事業を展開している。ひとつ目は自社ブランドである『+d(プラスディー)』をはじめとしたオリジナル商品を開発するメーカーとしての機能。次に国内外で約10店舗を展開する『KONCENT(コンセント)』とオンラインを含めた小売。さらに(続きを読む)
数え切れない引っ越しと、
数え切れない感謝の念。
下町生まれの、下町育ち。自分を紹介する時に、よくそんな言い回しを使っている。人が温かく、街のいたるところに情緒や風情を感じさせてくれる下町の雰囲気が大好きだ。そしてそれは生活に限った話ではない。2002年にアッシュコンセプトを創業してから“イースト・トーキョー(続きを読む)
“黒船作戦”で、海外へと出展。
今は“規模”より“価値”を追い求めて。
この連載の何回か前にお伝えしたとおり、オリジナルブランド『+d(プラスディー)』は、ニューヨークの『MoMAデザインストア』から販売をスタートさせた。その結果「海外で売れている」という事実が、国内の販売戦略にも良い影響を与えることを再認識する。(続きを読む)
売り方までをデザインするための
挑戦、『KONCENT』。
2012年4月。本社を蔵前駅前のビルに移転したタイミングで、直営店『KONCENT(コンセント)』の1号店をつくった。きっかけは前述の通り、現在は役員を務める中森大貴から「小売店を持ちたい」という声が上がってきたから。しかし正直に告白すると、私は少し抵抗があった。(続きを読む)
会社の歴史。それは人との出会い、
そして育まれた絆の歴史である。
幼少期から学生時代、そして高島屋、マーナと社会人経験を積む中で、とにかく人に恵まれ、人に支えられてここまでやってきたと思っている。「デザインはチームプレー」。スタッフたちにもずっと伝え続けている大切な考え方だ。多くの人たちとの出会いがなければ、今の私はなく、(続きを読む)
上下関係はなし。妻と息子は仕事と
プライベートの両方で関わる仲間。
前回の終わりに書いた通り、ここで自分の家族に触れた上で、フィナーレへと向かいたい。妻の久美子とは武蔵野美術大学のスキー部で出会った。学生の時に交際をスタート、高島屋在籍時に結婚をして、約40年が経ち、現在に至っている。「大好きな人ができたら、青い便箋と封筒で(続きを読む)
迷いの中で、これからも「Let’s act」。感謝の歴史は続いていく……
さぁ、ついに最終回までやって来た。フィナーレはもうすぐ。締めくくりの話を進めていこう。今回、この連載プロジェクトを通して、改めて自分の人生を振り返ってみた。その中で感じたのは、連載の最初にも書いたが、自分の歴史、そして会社の歴史は、“人への感謝の歴史”に(続きを読む)