20stories

Vol.08

クライアントは実家。
デザインとユーザー目線で急成長を。

Vol.08

クライアントは実家。デザインとユーザー目線で急成長を。

高島屋に入社してから3年。忙しくも充実した社会人生活を送る中で「父が倒れた」と家族から連絡を受け、私は病院へと見舞いに行った。そこで父から意外な申し出を受ける。

「家業であるマーナを手伝ってくれ」

本当に驚いた。この連載の中でもお伝えしてきた通り、小さな頃からずっと「お前は次男坊だから、好きなように生きろ」と繰り返し言われ続け、それが故に自分の力で人生を切り拓いてきたという自負にも似た思いがある。「今さら、そんな……」。はじめは反発したい思いが強かったものの、体力的に弱っている父を見ていると「せめて生きているうちに親孝行を」という気持ちが芽生えてくる。そして次第にそれが大きくなり、悩みに悩んだ結果、高島屋を退職し株式会社マーナで働くことを決めた。1984年、26歳のことである。

名児耶秀美

デザイン性はもちろん、機能も追求。固さや素材を変えては、何度もテストを行った。擬似汚物はクレヨンで。

会社には、大学卒業後に別の企業に勤めに出ていた兄が、私より数年先に戻っていた。当時は父が社長で、母が専務、さらに2人の姉が経理と生産部門に在籍し、兄が営業部長で、叔父が工場長を務める典型的なファミリー・カンパニーだった。父に「手伝ってほしい」と言われて入社したものの、私に具体的な役職や仕事が用意されていたわけではない。そこでまず主に商品の企画やデザインに携わりながらも、営業や広報、生産管理など、何から何まで首を突っ込んで業務を進められるよう、『企画室』を立ち上げた。事業を展開させていくと、すぐに人が足りなくなったので、大学時代のスキー部の仲間たちにも声をかけた。さらに取引先などの客人に製品の魅力を伝えやすいよう、オフィスの一部をパーティションで区切ってショールームをつくるなど、次々に社内の変革を試みたのがこの時期である。

この頃の記憶を辿ると、とにかく現場に足を運んで、直接人と会っていたように思う。ある時は協力工場に行き「こんなものはできないか?」と交渉をした。またある時にはデパートなどの売り場に行って、店頭のスタッフと「こういうレイアウトの方が良いのでは?」とディスカッションを重ねた。さらにある時には自社工場に出向き、製造効率を上げるために、工場長を務める叔父と激しく意見をぶつけ合わせた。デスクで悩んでいる暇があったら、現場に足を運び、人と会う。その姿勢は今も変わっていない。

マーナ
マーナ

当時、主にパッキンや電子機器の部品として使用されていた「シリコン」を主役とした製品 を発表した時の様子。

シリコン単素材の製品は、それまで世界に存在していなかったと言ってもいいほ ど珍しいものだった。

マーナ

当時、主にパッキンや電子機器の部品として使用されていた「シリコン」を主役とした製品 を発表した時の様子。

マーナ

シリコン単素材の製品は、それまで世界に存在していなかったと言ってもいいほ ど珍しいものだった。

商品を企画し、世に送り出す上で何より大切にしていたことがふたつある。それは『デザイン』と『ユーザー目線』だ。まずは前述の通り、社内に企画室をつくり、その中でデザイナーに腕を振るってもらった。しかしそれだけではリソースが足りない。そこで外部の優秀なデザイナーともコラボレーションし、時代に合わせたエッセンスをどんどんと入れ込んでいった。そうやってデザインに重きを置くと同時に、“使う人”のことを大事に考えなければならない。そんな思いから、販売店に足を運んでは、数時間にわたってユーザーの行動をじっくりと観察するようなことも当時はよくやっていた。これらはアッシュコンセプトのオリジナルブランド『+d(プラスディー)』にそのまま息づいている考え方である。

今思うと、その頃の私は、現在アッシュコンセプトの事業として企業や自治体、産地に対して行っている『デザインを活用したブランディングやコンサルティング』を、自分が生まれ育った実家をクライアントにして行っていたようなものだ。

そういった数々の取り組みを進めることで、私が入社した当時は3億円に届いていなかった売り上げは、退職する2002年には何十倍にも跳ね上がり、過去の回で挙げたような多くのヒット商品も誕生。業界の中でマーナが存在感を強めるまでに、それほど時間はかからなかった。

Vol.09に続く

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