20stories

Vol.04

中ランとボンタンの美大志望生、誕生。

Vol.04

中ランとボンタンの美大志望生、誕生。

前回お伝えした通り、「ケンカはしない不良」とでも呼べるような荒れた中学校生活を送った後、1974年に暁星学園高等部へと進学。仲間たちとの悪さにも飽きてしまったその頃の私は、人生で進むべき道を模索すべく「自分は何が好きなのか」をじっくりと考え始めていた。その中でぼんやりと、しかしブレることなく浮かび上がってきたのが、『美術』や『デザイン』の世界である。特になりたい職業があったわけではない。ただ幼少期から辿ってきた自分のルーツとなる部分を掘り起こすと、必然的に「美術の勉強がしたい」という強い思いが溢れ出した。とは言え、具体的には何から始めればいいのかがまったく分からない。そこで私は暁星高校の美術教師だった増村寛先生に相談することにした。するとすぐに両親を呼ぶように言われ、後日、父と母を加えた4人での話合いが行われることとなる。

「美術の世界は食えません。お父さん、それでもいいですか?」

それが今も私の耳の奥に残る、その面談の場で増村先生が放った言葉だ。それに対する父の返答は、何度も聞いてきた馴染みのあるフレーズ。「この子は次男坊なので、好きなことをさせます」というもの。自分が望む将来への道を歩める嬉しさと、やはり父からは何も期待されていないと落胆する気持ちの両方が私を襲った。

ちなみにこの時の「食えない」という言葉は、その後もずっと私の心にいすわり続けた。それもあってか「自己表現」をメインとする「アート」の世界に入ろうと思ったことはなく、あくまでユーザーありきで、ビジネスとして成立する「デザイン」の世界に身を置き続けている。とはいえ、これから自分自身の最後の活動として、アートにも取り組みたいと思っているのだが、その話はまたの機会に譲りたい。

名児耶秀美

中学から高校へ。高一の時の学生証(この頃はまだ髪がふさふさだ)

中学から高校へ。高一の時の学生証(この頃はまだ髪がふさふさだ)

何はともあれ、進むべき人生の方向は決まり、私は大手を振って美術系の大学を目指せることとなった。高校1年生から通い始めたのは、美大を目指すための塾として知られ、実際に多くの美大生を輩出している『お茶の水美術学院』、通称『お茶美』の夜間コースだ。偶然にも暁星学園の同学年には美大を目指す学生が多く、学校が終わってから仲間たちとお茶の水へと足を運ぶ生活が始まった。ちなみにその時の私の風貌は、中学で悪さをしていた頃と変わらず、“中ランとボンタン”のまま。美大合格を競い合うライバルたちの中で、一風変わった存在だったように思える。当時の“不良の慣例”にならってペタンコに潰した学生カバンは、いつの間にか、美術関連の参考書で膨らんでいった。

ずっと身が入らなかった学校の授業とは違い、好きなことを学んでいるお茶美での勉強はまったく苦にならず、特にデッサンに関しては誰にも負けない自信があった。小さな頃から絵を描くのに没頭していたので、対象物そのものや、その影などをじっくりと観察することに長けていたのかもしれない。そこから2年以上にわたって、デッサンや色彩、彫塑などをひたすら学び続け、その甲斐があったのか、ケンカはしない不良の大逆転を達成。私は受験したすべての私立の美大に合格し、最終的に武蔵野美術大学の造形学部に入学することを決めた。ちなみにくだらない言い訳をするのであれば、東京藝術大学の試験では、石膏像に対して順光の位置のイスに座ることとなり、白さを表現したデッサンはとても上手く描けた自信があった。しかし傾向として東京藝大では真っ黒にしたデッサンが受け入れられるようで、不合格となっている。

MAU 武蔵野美術大学

武蔵野美術大学の正門。学校のシンボルのひとつとして知られている。

少し話を戻すが、高校の美術教師を交えた面談時に、父が美術の道をすんなりと承諾してくれたのには、別の背景があったことを大人になってから知った。実は彼も美術の世界に憧れを抱いており、若い頃にその道に進みたいという思いを持っていたらしい。しかし自分は経営者としてのレールを歩まざるを得ないという運命がある。「次男坊だから〜」という突き放したような言葉の裏には「定められた境遇の中で生きるのではなく、秀美には好きなように生きてほしい」という父なりの配慮が込められていたのかもしれない。

Vol.05に続く

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