20stories

Vol.05

授業の中で感じた、拭いきれない違和感。

Vol.05

授業の中で感じた、拭いきれない違和感。

1977年の春、私は武蔵野美術大学造形学科の『芸能デザイン学科』に入学した。晴れて念願だった美大生となったわけである。主に学んでいたのは、舞台やディスプレイといった商業ベースの空間演出に関わるデザイン。ちなみにアッシュコンセプトの直営店である『KONCENT』の各店舗で、商品を置くために現在も使用している「ロの字」型のシンプルな什器は、私がデザインしたものである。授業ではそういった知識も学んでいた。

そんな風に説明をすると、真面目に勉強をしていたように思われるかもしれないが、実際はまったくそんなことはない。学校にはほぼ行かず、冬はスキー、夏はサーフィンばかりをしている完全に不真面目な学生だった。提出すべき課題にも手をつけず、仲間たちが「名児耶、あの課題は提出したのか?」と声をかけてくれて「やっぱり出していないのか。じゃあ手伝ってやろう」と、いつも助けの手を差し伸べてくれた。今につながる「人に恵まれ、人に助けられてばかりの人生」は、すでに始まっている。

名児耶秀美

いつも助けてくれた大学の友人たちと、大学校舎にて。中央が名児耶秀美。

自分で希望して入学した美大であるにもかかわらず、不真面目な生徒になったのには、ちょっとしたきっかけがある。ある日、教授に呼ばれた私は、次の授業で使う資料を渡され、生徒の人数分コピーするように命じられた。これが何なのかを尋ねると、『ガリ版*』の原紙で、20年以上にわたって同じ内容で行っている講義で使うのだと言う。私は愕然とした。自分が学ぼうとしているデザインというのは、20年間まったく同じことを教えていても役に立つような世界なのか。そんな疑問を持たざるを得なかった。
*謄写版(とうしゃばん)。明治時代に生まれ小・中規模印刷に活躍した簡易印刷機

敵をつくることを承知で、ここであえて苦言を呈する。上記を一例に、現在の美術系の大学におけるデザイン教育は、本当に適切な内容なのかという疑問が頭から離れない。私自身も2012年から5年間にわたって母校である武蔵野美術大学の客員教授として関わらせてもらったが、その時も同じ違和感を抱き続けていた。もちろんすべてがそうだとは言わないが、ほとんどの授業が「教えること」自体が目的となっている。それを続けたところで「デザイン」の本質へと切り込んでいけるのだろうか。また講師の人選においても、学生の就職先に推したい有名企業から招かれるパターンが多く、そういった大学側の意向や、いわゆる“大人の事情”が見え隠れしてばかり。そうではなくて、大人の入り口にいる学生たちに対して、社会とのつながりを考えさせるような時間を与えることはできないのか。そんな思いをずっと持っていた。

だから私が担当する授業では、知識を与えるわけではなく、ただ自分自身が進んできた道を紹介して、その上で「で、君の道は?」と問いかけるだけ。それをやり続けた。もちろん基礎的な教育は必要ではあるが、それよりも自分が進むべき道を、自分で考え、自分で見つけるための4年間にしてほしい。そう願っていた。

また学校や講師だけでなく、学生たちにも問題がないわけではい。そもそも大学とは、教室のイスに座って勉強を教わるだけの場所ではないというのが私の考え方だ。それをするのは高校まで。大学の4年間は、アルバイトでも旅行でも何でもいいので、学校以外の時間も使って「自分が何をやりたいのか」を見つけ出すための大切な期間である。しかし私が見ていた学生たちは、みんな真面目に授業を受けている、いわば“高校4年や高校5年”が多かった。

長野県白馬の岩岳学生大会に参加。この写真の後、あえなく転倒したことも思い出のひとつ。

話を自分の大学時代に戻そう。授業には出ず、山と海に繰り出すばかりで、学校にはあまり真面目に通わない大学生活を送っていた。しかし校舎に貼り出されていたとあるアルバイト募集に目をつけ、それに応募し、その仕事を通して、後の人生に大きな影響を与える“師”と呼べる存在と出会うことができた。あれは今考えても、大学時代の数少ない収穫のひとつである。

Vol.06に続く

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